“伊勢丹の顔”と呼ばれ
日本のイラストレーターの草分けの一人、毛利彰氏(1935〜2008年)の作品を、まちづくりに役立てようという活動が出身地の鳥取市で進んでいる。毛利氏のファッションイラストは東京の町を彩り、百貨店伊勢丹の顔と呼ばれたが、その原点は、多くの人に経済的に支えられ美術を志した鳥取での苦学生時代だった。毛利氏を育てた鳥取への恩返しが、没後17年を経て、実現へ動き出そうとしている。
ファッショナブルなイラストが大流行
早くから画才を現した毛利氏は、鳥取西高校(鳥取市)在学中、18歳で全国公募展「一水会展」に初入選し、それ以来5回連続で入選。昭和32年に22歳で上京すると、新宿伊勢丹宣伝部にイラストレーターとして勤め始めた。
経済成長で消費意欲が高まり、日本の暮らしが豊かになりつつあった頃。時代の先端である百貨店の広告から発信される、毛利氏の明るくファッショナブルなイラストは大流行し、若くして伊勢丹の顔と呼ばれるようになった。
毛利氏の長男で団体役員の葉(よう)さん(57)は「新宿の伊勢丹辺りに行くと、ショーウインドーのポスターや電車の中吊り広告などに父のイラストがあふれていました。百貨店の売上高が、イラストレーションの力で変わる時代でした」と言う。
毛利氏の画力は、書籍や新聞など出版業界でも大いに発揮された。広告表現の主体がイラストから写真へ移行し始めた頃の昭和46年、36歳でフリーに。以後、オリジナル作品の制作とともに、新聞小説の挿絵、書籍のカバーイラスト、雑誌の表紙など、出版関係の仕事に力を入れる。54年には、朝日新聞に連載された曽野綾子さんの小説「神の汚れた手」の挿絵を担当。連載終了後、曽野さんは毛利氏の丁寧で繊細、正確な描きぶりを「極道」と評した。道を極めた、との意味だ。曽野さんとはそれから、新聞連載小説の仕事を何度も重ねている。
貧乏のどん底から
こうして宇野亜喜良氏、和田誠氏らとともに日本のイラストレーターの草分け的存在と位置づけられるようになったが、名声を確立するまでの苦労はあまり知られていない。
毛利氏は鳥取市で祖父、父とも日本画家という芸術環境豊かな家に生まれた。一家は同時に、市内に貸家を三十数軒も営む素封家だったが、鳥取大震災(昭和18年)、鳥取大火(27年)と重なる災害で全てを失い、その間に父が亡くなったこともあり、一気に貧乏のどん底となってしまう。
ちょうど鳥取西高の美術部長になり、一水会展に初入選を果たす直前の時期だ。高校生ながら、弁当業者や百貨店でアルバイトをし、母ときょうだいの一家を養うことになった。
その鳥取西高に『少年とひまわり』という毛利氏の油画が残っている。鉢に入ったひまわりの横に立つ、白シャツ姿の少年を描いた絵で、近代洋画を思わす正統的な力強いタッチの力作だ。「東部高校美術展」で受賞した作品だが、実は授業料が最終的に払えなくなり、代わりに学校に寄贈したものだという。
画料で授業料をカンパした先生たち
鳥取西高をめぐるエピソードはそれだけではない。同校の先生が放課後、自らをモデルに毛利氏に油画を描かせ、画料を支払っている。先生たちが、次から次へと注文したという。
学業をもう続けられないと考えた毛利氏が退学届を出し、お別れ会も開かれようかという時期。絵の注文は、才能ある学生が学校をやめないですむよう、人情味ある先生たちが考えついた一種のカンパでもあった。
毛利氏は1年間休学したが、昭和29年、19歳で同校を無事卒業。後の東京での活躍につながる。「だから、父は仕事は東京でしましたけど、鳥取への愛着が強いんです」と葉さん。鳥取市内には毛利氏が描いた原画が2千枚以上も保管されており、市の文化的なまちづくりに貢献するなら「父も喜ぶだろう」と葉さんは考えている。
そして“鳥取の顔”へ
平成28年8月、鳥取市で「イラストレーター毛利彰の会」が立ち上がった。葉さんが代表世話人となり、元公務員や現職の高校教諭らさまざまな立場の約50人が集まった。
会は作品の収集・整理・公開を進め、毛利氏の絵やイラストレーションの魅力を次世代に継承していくことを目的とする。 「若い頃、父は鳥取の人に支えられ、育てられました。だから、作品を地元の若い人に知ってもらい、若い人たちが羽ばたくことに役立てられれば」と葉さんは願う。市内の店舗など街中に原画を展示し、絵やイラストを志す若者をはじめ誰でも毛利氏の作品に親しめるようにすることで、鳥取の文化的な魅力を高めていければ-と構想している。
イラストレーター毛利彰の会
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